更新:2023年11月1日
作成開始:2024年2月26日
すべての著作権は山野目辰味に属します。
(国土地理院地図を使用し、加工はすべって筆者が行った)
上の写真は、宮古市川内の旧夏屋村と岩泉町の境の”袖山(外山)”付近の峠筋から西方向の宮古新道があった、サクドガ森(正面の山頂が平たい所)を遠望しています。新道はこの山々の連なる標高差の少ない長根(尾根)を伝うように作られていました。
なぜ、宮古新道が、それも標高1,000m前後の北上山地の特徴である削られて残った起伏の(他の山々に比べると)少ない、長根が連なった”平頂峰”を伝った、さらに雪がある冬季は使用不能である峰々を往く道を作ったか?そのことをよく理解しておく必要性があると思います。
この藤田宮古新道は、文政六年、幕末期に作られました。盛岡藩は財政的に非常に厳しい状況が長年続いており、その中で米の生産は、気候が安定していても作柄は新田が大幅に増えない限り、生産量はほぼ一定で、米から得られる年貢による藩財政もかぎられたものでした。しかし宮古をはじめ、沿岸地区の漁業は水揚げにはその都度差がでるものの、建網の進化、漁法の発展などにより全体量としては徐々に増加していた状況でした。宮古や釜石などには漁獲量の10%を税金として吸い上げる”十分の一役所”というものまで設置し、税金をとっていました。さらに外国船が近海に現れる状況がみられ、こうした状況から沿岸の重要性が増していく状態にありました。盛岡藩の外港として宮古が指定され、藩船もあまり活躍はしなかったものの、宮古浦に浮かんでいました。
こうした宮古周辺の海産物の商売のため、盛岡のみではなく藩を越えて手広く商売をしていた商人も盛岡-宮古の行き来が重要でした。五戸の商人、藤田武兵衛さんもその一人で、商用で宮古に行った時に、おそらく後の新道となるルート(牛方などがすでに行き来していた)を歩いたとの記録があり、閉伊川筋の水がでればすぐに通行不能となる宮古街道本道と違い、山の比較的平坦な長根をたどる道は、難所はあまりなく行き来できる、との意見を藩に出して、新道開削の許可を得て、私費をもって宮古新道を開削したということです。
ここで記録するのは、その宮古新道になります。
(”宮古新道”という街道は、実はもう一つありました。盛岡城下の加賀野から浅岸、銭掛などを通り現在の岩泉町の櫃取、釜津田、大川を経由し、宮古代官所の”中北通”の道:鼠入、上有芸、田代を経由し宮古に至る街道です。この街道はその絵図をお持ちの方が公開をしておらず、その詳細を把握できないため、調査はかなりの時間がかかることが予想されます。こうした歴史的な資料は死蔵するのではなく、公開し世の役にたたせることが所蔵者の使命かと思います。)
◆藤田宮古新道と宮古街道古道全体図
この宮古新道の経路は、旧川井村の古舘家所蔵の”宮古新道図”、および五戸町誌下巻”宮古新道十五塚”、岩手県史5 近世編の新道の十五塚の記録などを参考に図示しました。この新道の経路をあげている、岩手県教育委員会の歴史の道調査報告書「宮古街道」の記述では、その絵図に記載された地名などの調査がなされず、地名の特定ができないため、一貫した経路を示すことができていないようです。
筆者は、絵図と五戸町史の記録を元に、記録されている地名などを調査し、数か所以上の現在誰にも知られていない絵図、五戸町史にあげられた新道が通る場所を特定を進めてきました。上図の地名などはあげたモノがすべてではないですが、杤棚(とちたな)、鍵掛、
嘉倉沢、弥五郎沢、袖山、本坂、姫子松頭、蠅玉貫(蠅の字は、絵図では糸へんであり、当用漢字をしらべてもでてきません)、は
筆者が調査して場所も特定したものになります。その他にも続く本編でご覧いただけます。
また岩手県歴史の道調査報告書「宮古街道」に記載された宮古新道の経路は、当調査と異なる所を”紺線”で表示してあります。
この県比定の経路は、現場踏査するとわかりますが、地形上ありえないルートになっております。現場を歩けばそのルートがありえないことがよく理解できます。同報告書で述べられるように、宮古新道は山の稜線が続く場所をつないで道筋と述べられたものですが、地形を踏査すれば、特定の稜線をつないでたどる、それの選択肢はほぼひとつしかないことも理解されます。
地形や、山の稜線が戦後に広大な牧場などとなりそれがその後牧場ではなくなり、そうした所は広大な笹の密生地となるなどで踏査不能の所が多く、なかなか調査は進展しませんが、これまで判明した新道のルートをここに記録したいと思います。
今後もいろいろ調査法を考えつつ調査を鋭意進めていきたいと存じます。
楽しみにお待ちいただければと存じます。
なお、古舘家所蔵の宮古新道図の原絵図は提示していただけないようで、宮古市川井の北上山地郷土資料館所蔵のその絵図のコピーを使用したことをお断りいたします。
上図:五戸町誌に掲載されている、文政六年三月から建設が行われた新道について、同年六月には完成し、一里塚を築造した場所が記載された文書をあげた文書の解読文になります。盛岡の鍛冶丁の元標から作れております。この一里塚(小道で七里塚)の築造場所から新道の
経路がわかります。なお、二番の栃明沢は誤記で”杤棚(とちたな)で、簗川の宮古側から道標があるところを飛鳥に向かい、飛鳥の東にある”嘉倉沢”(筆者の調査で場所を特定)脇の道を、烏長根にあがり岩神山と兜明神の間のタア(山の峰がたわんで低くなったところ)を、岩神山の東にある”摺石”のすぐ南側をすぎて、おそらく坂をくだり、”弥五郎沢頭”の下を通り弥五郎沢を(これも筆者の調査で特定)をわたり、松草沢最上流の現在の松草峠(立臼峠)を東に長根沿いに往き、青松葉山からサクドガ森に向かう稜線を東向、その途中に中達曽部沢の最上流の尾根頂部(中達曽部頭)を越えていきます。大川村(現岩泉町)の最南端の袖山(外山そでやま)=夏屋村から北上する釜津田道が分かれるところを通過し、現在のアイボラ峠(ヌカリタア)を害鷹森、そして南東に向かい”姫子松頭”(筆者調査で特定)、長松頭の稜線を猴候舞山に向かいます。猴候舞山から念仏森の南の堀谷ノ沢沿いを下り、刈屋川との合流部で大北道に合流します。夏屋村から姫子松頭あたりにあがる”刈谷道”は古から夏屋と刈屋村を行き来する重要な街道でした。そこを新道に利用したことになります。
この刈谷道は、閉伊川筋の宮古街道が水害で通行不能となると臨時の宮古街道として使われたことがなんどもあるようです。盛岡藩の出した文書も、このルートを使用する旨書いたものがありますが、そこが、佐々木健さん(刈屋在住)の言う”猴候舞御用通路”と呼ばれていたか文献的は証明しえず、佐々木さんが仮につけた名前と考えられます。
県教委の報告書「宮古街道」の地図上に比定された新道のルートは、いったん飛鳥に行った新道は、栃沢の渓谷を横断するように区界峠に来て、区界の田代村の黒澤から黒沢沿いに北上し松草沢の峠方向にいくように記載されていますが、この一里塚設置の場所、あるいは古舘家所蔵の”宮古新道絵図”から、いったん飛鳥に行った新道は前述のごとくの経路で、黒沢沿いには行き来できた道はあったと思いますが(藤田武兵衛さんが宮古に行った際にこの黒沢から山の稜線にあがる経路を使っている記録があるが)、新道のルートは前述のごとくに設置されたと考えられます。
1,盛岡城下上小路から簗川・飛鳥
2,岩神山からサクドガ森
3,サクドガ森、袖山から猴舞山
【参考文献等】
・古舘家所蔵;宮古新道絵図(宮古市川井北上山地民族資料館所蔵複写絵図)。
・五戸町誌 下巻 五戸町誌刊行委員会 1969 p478-489
【協力いただいた方々】
・盛岡市簗川飛鳥 佐々木保男さん所蔵 飛鳥地図
・宮古市区界黒澤 黒澤 ミヨさん
・宮古市川内夏屋 村上 タケオさん
・株式会社グリーンパワーインベストメント
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